History
第六章
充実期(昭和40年代)
社訓十則に企業姿勢
のれんに対する大きな信用
昭和40年代初期の青野海運株式会社の売り上げの推移をみると、40年度が約3億5,400万円、41年度が約4億1,600万円、42年度が約5億9,200万円となり、1年間で6,000万円から1億円の伸びを見せた。これはひとえに住友系企業の業績の伸長に伴って船腹を確保した結果であった。
当時の営業方法といえば、新居浜本社では毎日午前中に住友金属鉱山株式会社や住友化学工業株式会社に顔を出して出荷、配船の打ち合わせ。大阪出張所でも同様で、毎日荷主のところに出向いて、どこへいつ何100トン運べという指令を受けていた。受け荷主のところにも足を運び、輸送が万全かどうかを確かめるのも仕事であった。運賃は現地である程度決定していた。営業担当者は「お得意さんからいい評価を得ていて、のれんに対する信用は大きかった」、「不義理さえしなければ、同業他社に足をすくわれる心配はありませんでした」と口をそろえて語っている。なお、42年には住友千葉化学工業株式会社(50年に住友化学工業株式会社と合併)が本格操業を始めた。
第13金光丸(昭和40年4月)
初のケミカルタンカー第13金光丸と鋼製曳船第2源福丸竣工
取引の広がりと41年後半からのいざなぎ景気(45年6月まで続く)の追い風もあって、青野海運株式会社は船隊を増強した。
昭和40年の青野海運株式会社の保有または運航船腹は別表の通りである。陸上勤務者は31名、乗組員は190名。4月には初のケミカルタンカー・第1船『第13金光丸』(200トン積み)を愛媛県越智郡大三島の西原造船所で竣工させた。高度経済成長下で石油化学の伸びが著しく、住友化学工業株式会社が青野海運株式会社にもケミカル船へのビジネスチャンスを与えたものであった。また、港湾運送事業を整備拡充し、特定船舶整備公団との共有により鋼製曳船 『第2源福丸』を4月に広島県の向島造機株式会社で竣工させた。特定船舶整備公団は後の船舶整備公団(41年12月)のことで、この頃は、戦標船処理対策などが主な仕事だった。
昭和41年1月には元塚造船所で建造した鋼製艀の『ロゴ35号』(公団共有船)が進水し、11月には液体アンモニア専用船『第53金光丸』(公団共有船、200トン積み)が波止浜造船株式会社で進水した。青野海運株式会社にとって鋼製タンク船では8隻目の社船となった。翌42年10月に鋼製艀『ロゴ41号』(公団共有船)が元塚造船所で進水。38年の『ロゴ31号』から5年間で5隻と急ピッチの船腹拡充となった。まだまだ艀の需要が伸びていた頃である。
12月には硫酸運搬船『なかえい丸』(船主・中居厚平、200トン積み)が岡山造船所で進水し、船隊に加わった。
鋼製曳船・第2源福丸(昭和40年4月)
希硝酸、アルキルベンゼン輸送開始
40年3月から受託船『第2幸升丸』で希硝酸のタンク船輸送を開始した。硝酸の輸送はすでに33年から行っており、前年には硝酸専用タンク船『第11金光丸』を建造して運航するなど、ノウハウは十分に蓄積していた。8月からは住友化学工業株式会社菊本製造所から大阪北港向けのアルキルベンゼン輸送を始めた。アルキルベンゼンは洗剤の原料で、わが国では26年頃から登場し、電気洗濯機の普及とともに需要が増大してきた。合成洗剤部門の強化を図っていた花王石鹸株式会社(現:花王株式会社)に住友化学工業株式会社がアルキルベンゼンを供給することになったもの。さらに同じ年、四塩化炭素の新居浜~大阪の輸送も開始した。冷凍機や空調の冷凍用フレオンの原料となるもので、大江製造所のプロピレンを塩素化することで得られた。35年12月から月50トンを生産。その後、電気冷蔵庫やドライクリーニングの普及で四塩化炭素の需要が増大し、住友化学工業株式会社では再三、設備を増設した。四塩化炭素は毒性が強かったが、青野海運株式会社は難なくこなし、パークロールエチレンと積み合わせ輸送を行った。
昭和40年中期の所有船舶
建造船舶・鋼船 |
船 名 |
建造年月日 |
D/W |
第1金光丸 |
昭和35年12月 |
330 |
第3金光丸 |
36年7月 |
350 |
第5金光丸 |
36年10月 |
250 |
第8金光丸 |
38年7月 |
350 |
第11光輝丸 |
39年3月 |
280 |
第13光輝丸 |
40年4月 |
200 |
建造船舶・木船 |
船 名 |
建造年月日 |
D/W |
第7光輝丸 |
昭和11年7月 |
270 |
第11光輝丸 |
13年8月 |
120 |
第13光輝丸 |
13年10月 |
110 |
第21光輝丸 |
28年7月 |
330 |
第32光輝丸 |
32年7月 |
200 |
第35光輝丸 |
32年6月 |
170 |
第41光輝丸 |
34年3月 |
150 |
第1別府丸 |
33年2月 |
200 |
第2別府丸 |
33年4月 |
150 |
購入船舶・木船 |
船 名 |
建造年月日 |
D/W |
大 宝 丸 |
昭和23年12月 |
110 |
海 福 丸 |
24年10月 |
150 |
第23光輝丸 |
29年7月 |
170 |
第26光輝丸 |
29年6月 |
120 |
重 久 丸 |
30年11月 |
170 |
宝 勢 丸 |
31年1月 |
120 |
光 栄 丸 |
31年6月 |
120 |
第28光輝丸 |
31年8月 |
180 |
第31光輝丸 |
32年1月 |
160 |
第38光輝丸 |
35年6月 |
100 |
第51光輝丸 |
33年2月 |
150 |
艀 船 |
船 名 |
船質 |
D/W |
㊉1号 |
木 |
220 |
㊉3号 |
木 |
170 |
㊉8号 |
木 |
200 |
㊉10号 |
木 |
200 |
㊉18号 |
木 |
330 |
㊉31号 |
鋼 |
350 |
㊉32号 |
鋼 |
350 |
㊉33号 |
鋼 |
330 |
曳 船 |
船 名 |
建造年月日 |
馬力数 |
G/T |
凰丸 |
昭和15年8月 |
H 90 |
34.23 |
源福丸 |
17年11月 |
H 75 |
16.77 |
第3推進丸 |
19年6月 |
H 50 |
10.21 |
第2源福丸 |
40年4月 |
D250 |
53.85 |
42年の運航船腹 |
品 名 |
隻数 |
総トン数 |
馬力 |
D/W |
硫酸 |
14 |
1817.52 |
2,245 |
1,917 |
液体アンモニア |
9 |
1632.48 |
2,220 |
767 |
液体硫酸バンド |
6 |
417.41 |
440 |
395 |
硝酸 |
2 |
250.12 |
348 |
205 |
希硝酸 |
1 |
186.61 |
200 |
120 |
苛性ソーダ |
6 |
616.6 |
625 |
566 |
アンモニア水 |
3 |
323.13 |
360 |
360 |
塩酸 |
2 |
136.39 |
190 |
120 |
ホルマリン |
1 |
5537.56 |
75 |
92 |
アンモニア水 |
1 |
60.06 |
60 |
100 |
四塩化炭素 |
1 |
48.62 |
75 |
92 |
計 |
46 |
5537.56 |
6,838 |
4,734 |
別府出張所開設し業務充実
10月には7つ目の出張所である別府出張所(兵庫県加古郡播磨町)を開設した。製鉄化学工業からの要請によるもので、姫路から別府への液体アンモニアの移送の増量、メタノールの増産計画に対応し、業務の円滑を目的としていた。初代所長には熊田清一が就任した。
昭和40年中期の所有船舶
船 名 |
D/W |
船長 |
宝 力 丸 |
110 |
白 石 文 夫 |
第2宝恵丸 |
250 |
谷 川 浅 市 |
運礦砿丸 |
200 |
佐 名 定 男 |
周 防 丸 |
180 |
尾 崎 兼 市 |
光 栄 丸 |
120 |
赤 瀬 光 義 |
松 吉 丸 |
140 |
重 田 美 芳 |
英 神 丸 |
120 |
福 田 進 |
宝 恵 丸 |
250 |
中 村 広 吉 |
第6宝生丸 |
70 |
水 野 豊 |
第2幸昇丸 |
270 |
高 橋 実 男 |
金 生 丸 |
130 |
徳 永 勇 治 |
第5寿々丸 |
120 |
吉 永 昌 三 |
第10大東丸 |
110 |
小 川 秀 美 |
第1盛運丸 |
120 |
岩 瀬 正 |
船 名 |
D/W |
船長 |
神 通 丸 |
160 |
丸 山 栄 一 |
白 洋 丸 |
220 |
松 田 明 文 |
東 英 丸 |
130 |
大 段 利 治 |
靖 貴 丸 |
170 |
徳 重 三 郎 |
金 光 丸 |
240 |
徳 重 雪 太 |
第7豊栄丸 |
270 |
吉 久 義 孝 |
第2喜長丸 |
200 |
広 瀬 千代美 |
妙 見 丸 |
230 |
野 間 建 也 |
光 栄 丸 |
230 |
村 上 満 春 |
第3周防丸 |
70 |
岩 見 役 治 |
喜 福 丸 |
100 |
寺 本 力 吉 |
神 力 丸 |
90 |
近 藤 隆 利 |
栄 幸 丸 |
210 |
藤 沢 順 |
第5春日丸 |
250 |
堀 内 勇 夫 |