History 第八章 飛躍期(昭和平成年代)
21世紀へ向け意識改革

惜しまれた重馬会長の死去

重馬は正に社長を譲って6年後の平成5年2月9日、死去した。前日までいつものように出社し、書類に目を通し、その夜突然亡くなった。満84歳。同日、勲四等瑞宝章に叙せられた。

重馬は市太郎以上に公職が多かった。新居浜市会議員(副議長、議長)、愛媛県公安委員会委員、新居浜商工会議所会頭、愛媛県商工会議所連合会副会頭、海運 団体では四国地方海運組合連合会理事、全国内航タンカー海運組合監事として活躍、2年には新居浜市名誉市民第1号となっていた。

青野重馬の市民葬

悲しみにつつまれた市民葬

3月1日、新居浜市民文化センターで行われた市民葬では、葬儀委員長・伊藤市長の葬詞、県知事、県議会議長、商工会議所会頭の追悼の辞と続き、参列者1,500人が献花して別れを告げた。

重馬は生前より「不況の長引く中で、奨学金の運用はうまくいっているのか」とことあるごとに心配していた。先々代の市太郎が昭和51年、天寿を全うしたとき、重馬は報恩の意を含めて同年、新居浜市に3,000万円を寄付し、青野記念奨学基金を発足させた。その後63年に500万円を追加寄付、平成5年度までに48名の学生が恩典を受けている。重馬の遺志を受け継ぎ夫人の田鶴子と社長の正が青野家を代表し、8月に同基金に新たに3,500万円を寄贈した。今後とも、創始者の精神は長々と受け継がれ、新居浜市出身の多くの学生にその恩典を与えていくだろう。

創業者の重松以来、青野海運が最も大切にしてきたものは人である。それは多分に経営者の人格に頼るところ大で、新居浜で第1号の名誉市民に重馬が選ばれた(平成2年11月3日)ことを見ても分かる。歴代の経営者はいずれも陰徳を十分積んでおり、尊敬こそすれ悪口をいう者はいない。青野海運についてもしかり。新居浜の名門企業である。

名誉市民章

青野記念奨学基金の追加を寄贈する
青野正社長と母親の田鶴子さん
(平成5年8月23日、新居浜市役所にて)

企業と地域貢献は車の両輪

青野海運にとって企業と地域貢献は車の両輪であり、4代目の正社長も公職を積極的に受ける。青年会議所に26歳で参加し、32歳で理事長となり、40歳(62年)で民事調停委員、46歳(平成5年)で新居浜商工会議所副会頭に就任した。全国内航タンカー海運組合常任理事、関西薬槽支部評議員でもある。

「時間はとられますが、調停委員をやっていますと人間形成に役立ちますし、商工会議所副会頭にしても皆さんがそういう絵を描いていて、それに逆らうのはどうかと考え、お受けしました」(正社長)。
企業の発展と社員の福利向上、地域への貢献、用船船主との共存共栄を目指す青野海運。

平成5年3月には『第28光輝丸』、6年2月には『第18神栄丸』も竣工して船隊は一段と充実してきた。6年7月には大三島にグループ社員の保養所も竣工。満100年を迎えた青野海運株式会社は、経営者、社員ともども次の100年に向けて、新たな航海に船出した。

社員一同(平成5年1月17日・金毘羅参拝)
第18神栄丸 (平成6年2月)
大三島の保養所 (平成6年7月竣工予定)
第28光輝丸 (平成5年3月)

平成5年12月の運航腹

船名 総㌧数
G/T
馬力
P/S
進水
年月
積載重量
D/W
積㌧数
積数量
タンク
容量(㎥)
タンク
材質
積載品名
 第1金光丸 139 350 S58.9 331 300 169.780  SM41  硫酸
 第8神栄丸 491 1,000 S62.5 1,293 1,000 634.080  SM41  硫酸
 第11光輝丸 199 800 H3.2 495 356 268.866  SN-1  濃硝酸
 第8光輝丸 288 1,000 H2.8 686 540 454.097  SUS316L  希硝酸
 神栄丸 197 650 S61.2 443 400 240.066  SM41+PFA  硫酸
 第3光輝丸 377 1,000 S63.2 700 600 714.114  SUS316L  ケミカル
 第32光輝丸 498 1,000 H3.11 1,230 1,000 1,299.920  SUS-304  ケミカル
 第28光輝丸 713 2,000 H4.12 1,985 2,000 2,195.995  SM41+エポキシ  白油タンカー
 第7光輝丸 489.00 1,000 H1.10 1,000 1,100 1,283.908  SM41+ジンク  白油タンカー
 第75金光丸 993.41 2,000 S53.4 1,347 800 1,418.154  WELTEN-62  液体アンモニア
 第3聖昌丸 198.93 600 S42.4 350 100 187.020  WELTEN-60  液体アンモニア
 第1光輝丸 198 650 S62.11 453 200 141.598  AL-1070  濃硝酸
 第21神栄丸 199 800 H1.3 490 400 307.792  SUS304L  混酸
 徳栄丸 199 650 S63.12 519 225 327.153  SUS304L  苛性ソーダ
 三島丸 197.26 550 S48.4 350 150 360.277  SUS304  苛性ソーダ
 金光丸 177.37 350 S55.7 320 300 207.675  SM41  硫酸
 松吉丸 196 600 H2.10 350 300 177.321  SM41+TFE  硫酸
 第3泉丸 173 600 H3.7 374 300 172.985  SM41-B  硫酸
 第3大和丸 489 1,000 H1.1 1,213 1,000 635.882  SM41  硫酸
 住幸丸 197.00 850 H2.1 567 500 664.358  ガルボンSHB  メタノール
 第7金光丸 64.12 125 S36.9 125 100 135.476  SM41  メタノール
 第18神栄丸 H5.12

正、日美コンビのパワーに期待

青野一族は商売人タイプと生真面目タイプの2つにはっきり分かれる。商売人タイプが市太郎や正社長、日美副社長であり、生真面目・学者肌が重馬や喜助。

青野喜助は青野海運の創始者である重松の二男。つまり市太郎の弟にあたる。喜助の二男、青野和夫・伊予銀行常務取締役(1994年当時)も「家系的には隔世遺伝で、創業者の重松と3代目の重馬が地味で堅実派。2代目の市太郎と4代目の正は陽気で商売人タイプ」と語る。

創業者の重松・キチ夫妻は教育熱心で、市太郎も当時では珍しかった高等小学校を出した。喜助の就学期には家業も順調となっていて、喜助は九大法文学部で東洋史を専攻、さらに広島文理大でも研究を重ねるなど二つの大学を卒業した。その頃の新居浜では珍しいことであった。喜助はその後、中・高校の教師となり、大阪、鹿児島、鳥取、高知などに赴任、新居浜西高校の教頭、伯方高校の校長を歴任した。親の背をみて子供たちにも教師になった人が多い。

青野和夫・常務には伯父の市太郎、従兄弟の重馬についていろいろの思い出も残っている。昭和8年生まれの和夫常務にとって、伯父とはいっても明治21年生まれの市太郎とは45歳違い、従兄弟の重馬(明治41年生まれ)とは25歳の違いだから、成人してからの印象が強い。子供の頃は「青野の自宅前の海で泳いだり、従兄弟の節夫さんと野球したりした」のが楽しい思い出。

大学を昭和31年に卒業して伊予銀行に入社。そのときの保証人が市太郎であった。「市太郎さんは外交的で根っからの商売人。周囲の人から“いっさん”と親しまれていた。陽気で抱擁力があり、地元財界の人たちからも慕われていました。しかし、財布をすられたりするなどスキもあり魅力的な人柄でした」。市太郎は喜助の親代わりでもあり、和夫常務も非常に可愛がつてもらった。

「重馬さんは立派な人でした。堅実派だし、銀行にも信用がありました。各行とも取引があったのですが、手形問題をきっかけに伊予銀行に1本化しました。これも決断のいったことでしょう。重馬さんが堅実経営、海運業という本業に徹してきたからこそ、今日の青野海運があるのではないでしょうか」と語る。また、青野海運の蔭の力として忘れられないのが節夫氏の存在。「青野家は元来、長寿ですが節夫さんは皆んなに比べると逝くのが早かった。正君も節夫さんを相当頼りに思っていたようで、葬儀のとき涙を流していたのが印象的であった。」

「青野海運は銀行員から見ても固すぎる。バブル期にもっとビジネスのチャンスを広げたらいい、と考えていましたが、結局バブルに手を出さなくて良かった。そこに青野海運が100年も続いた”根本”をみることができます。これほど安心して取引できる企業はありません」。

市太郎、重馬は「住友はん」といって住友一辺倒の仕事をしてきた。しかし、正・日美ラインは「あくまで住友を主体にしながらも、他の分野を開拓して企業を大きくしていこうとしています。これは大したもの」。重馬にも男の子は多いが、「兄弟の年齢に関係なく、船会社の経営に向くか不向きかで後継者を選びました。これが重馬さんの偉いところです。正君と日美君は絶妙のコンビです」という。

このコンビへの注文は管理面の充実。「真鍋専務は青野海運にぴったりの番頭役。真鍋専務の後継者を育てることが必要です。管理部門の後継者を育てればますます盤石の企業となります。攻めが上手な2人だけに心強いし、頼もしく感じます」とエールを送る。

さらに地域への貢献についても「今度、新居浜商工会議所の副会頭に正君が就任しました。地域でも地場企業として認められている証拠でしょう。市太郎、重馬、正と3代そろって新居浜商工会議所の会頭になってもらうのが私の夢です。」(1994年当時談)

青野 和夫
伊予銀行  代表取締役
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