History 第十章 展開期(平成後期~令和)外航海運に本格進出

東日本大震災の発生

日本を襲う激震と波濤は、「円高」だけではなかった。
平成23年(2011)3月11日14時46分18秒、東日本大震災が発生して、太平洋沿岸部を巨大な津波が襲った。
三陸沖を震源とするこの地震の規模は、我が国観測史上最大となるマグニチュード9.0であった。この地震では宮城県北部で最大震度7が観測され、最大潮位9.3m以上(福島県相馬検潮所)の大規模な津波も記録された。
人的被害は死者19,747人、行方不明者2,556人、住家被害も建物の全壊半壊一部損壊が合わせて1,154,893棟と未曾有の甚大な被害がもたらされた。ストック(社会資本・住宅・民間企業設備)への直接的被害額は、約16.9兆円と推計されており、阪神・淡路大震災(約9.6兆円)の1.7倍以上の被害額となった。

青野海運の配送先である茨城県鹿嶋市沿岸にも巨大津波が押し寄せた。
このとき、ケミカル船の「第三十六光輝丸」が三菱化学鹿島事業所のバースに横付けしていた。地震発生から3分後の14時49分、茨城県に津波警報が発令され、その25分後の15時14分には大津波警報に切り替えられて、緊急避難命令が発出された。
「乗組員は、直ちに陸上に避難せよ!」
船舶に対して、乗組員は船を降りて陸上に避難するように命令が出された。
大津波の第一波は、15時52分に到達した。その後も大津波の第二波、第三波が押し寄せて、鹿嶋市沿岸に甚大な被害をもたらした。この大津波により、多数の船舶が、座礁や乗り上げ、船体損傷などの被害を蒙った。幸いにも青野海運の「第三十六光輝丸」は、波の影響で移動はしたものの無事に難を逃れた。

「第三十六光輝丸」に乗り組んでいたのは、下道船長、佐々木一等航海士、谷田二等航海士、堀江機関長、古田一等機関士の5名であった。「第三十六光輝丸」乗組員の適切な対応について、次のとおり詳細な記録が残されている。

 

3月11日
09:00 鹿島/三菱化学 3バースにてC-9 480t積込み開始。
11:00 C-9積込み終了。
翌日、4バースにてEHE積み荷役予定のため、3バースから4バースへ本船シフト。
11:30 シフト終了し、待機停泊。
3名(船長、機関長、一航士)で食糧補給のためスーパーに外出。
2名(二航士、一機士)は船内当直。
14:40 地震発生。
スーパーに買い出し中の一航士より船舶へ電話連絡・指示あり。
「これから船舶へ戻るので一機士はエンジンS/Bしておくように」
(船舶)一機士:エンジンS/B。
二航士:船外点検。開放していた水密扉を確認後、全て閉鎖。
係船索点検後、船長へ電話するが繋がらず。
三菱化学/バースマスターより船舶から避難するよう指示があり、一航士・二機士は避難。
(買出し)スーパーの従業員の方にスーパーからMC正門まで車で運んでもらう。
16:00 先に避難していた2名と買出しに行っていた3名が避難場所で合流(MC正門)。
19:00 三菱化学の船(カガク丸)に乗り、本船へ乗船を試みるも失敗。
3回目の挑戦で乗船成功。
19:50 乗船後、各部署点検実施。
プロペラへの係船索巻き付きを確認。ロープ切断を試み成功。
20:15 再度船体確認後、鹿島/三菱化学前出港。
21:54 鹿島港沖アンカー。
(「第三十六光輝丸 東北地方太平洋沖地震発生時の対応」)

 

新居浜本社で対応した青野海運の役職員は、次のように回想している。
「平成23年(2011)3月11日、地震発生後にテレビで、船が流され防波堤に衝突する映像を目にし、『これは大変なことになった』と思いました。青野正社長から所属船舶の動静を確認するよう指示され、『第三十六光輝丸』が鹿島港に係留していることが判明し、事態が現実味を帯びてきたことを覚えています。『第三十六光輝丸』の携帯電話や船舶電話にかけても繋がらず、無事かどうか心配していました。後日、『第三十六光輝丸』を訪船して当時の状況を聞いたところ、係留待機中に地震が発生し、乗組員は2名しか在船しておらず、3名が買い出し(食糧補給)に行っていて沖出しできず、水密扉を閉め、係留強化後、陸上に避難したとのことでした。買い出しに行っていた乗組員3名も、スーパーの店員さんが工場近くまで車で送ってくれました」「『第五十一光輝丸』も混酸Aを積載し、鹿島港へ航行中に東日本大震災が発生しました。バースが荷役できる状況ではなく、1ヶ月ほど積み置きしていました。危険物積載状態で係留できる岸壁もなく、今治海上保安部に依頼し、危険物積載でも岸壁に着桟させてもらい、食糧等を調達して直ぐに離岸した記憶があります」
(青野海運安全運航本部安全企画部課長 青野真也「130年史」)

「脳裏に焼き付いているのは、平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災のことです。船の配船・営業・管理を主戦場としてメシを食っているのに、津波で船が流されるシーンはとても衝撃的で、脱力感による仕事のパフォーマンス低下が凄かったと記憶しています。『第三十六光輝丸』は鹿島の荷役岸壁で被災し、本船から船員も避難したため、乗組員不在の状態で沖に流されるという危機的状況になってしまいました。しかし、この事態も、船員の危険を顧みない行動により、何とか沈没を免れました。また、遠く離れた新居浜でも津波警報が翌日の昼過ぎまで解除にならず、それまで全ての荷役が待機状態となりました。津波警報が解除になって、直ぐに事務所にいる社員にも手伝ってもらい荷役を一気に行い、翌日の配船には何とか間に合わせました」
(青野海運営業本部内航営業部課長 大重淳仁「130年社史について」)

青野力常務は、次のように述懐している。
「知らせを聞いたときには、船はダメになると覚悟しました。それより人命優先ですから。ひたすら乗組員が無事でいてくれることを祈っていました。結果的には、人も船も無事であったと報告を受けて感謝しました」

第三十六光輝丸
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