海運不況の嵐
外航船舶は、造船所へ発注してから竣工に至るまで数年を要する上、解撤(スクラップ)までの期間が長い。このため、外航海運は需給ギャップが生じやすい産業である。
平成22年(2010)から24年(2012)にかけて、「リーマン・ショック」前の平成19年(2007)頃に発注された新造船が次々に竣工し、市場に投入された。世界のケープサイズ貨物船の竣工数は、平成17年(2005)までは50隻前後に過ぎなかったが、22年には約230隻、23年には約250隻、24年には約240隻が竣工したのである。こうした船腹の過剰によって、24年6月のロンドン市場では、ケープサイズ貨物船のスポット傭船料が1日当り4千ドルを割り込むほどの安値となった。一方、ケープサイズ貨物船の1日当りの運航コストが2万5千ドル程度かかるため、運航すればするほど赤字が膨らむ状況に陥った。1日に2万ドル強の赤字を垂れ流す航海。まさに海運不況である。
海運不況の嵐が吹き荒れるなか、平成24年(2012)にS社が経営破綻した。
昭和9年(1934)に大阪で創業したS社は、「自主独立」を標榜して、時価発行増資と第三者割当増資で資金を調達し、これを新造船の大量発注に回す独自の「S商法」で知られていた。しかし、オイル・ショックによって大量の新造船が不採算船となり、資金繰りに行き詰まって、昭和60年(1985)に当時として戦後最大規模の5,200億円の負債を抱えて倒産、1回目の会社更生法適用を申請した。
その後のS社は、平成10年(1998)に更生手続きを終えて、リーマン・ショック前には、売上高2,293億円、営業利益797億円の業績を記録した。ところが、この時期に大量の中型バルカーを発注し、保有船35隻に対して、傭船150隻という過度なレバレッジ経営(他人資本=船主に頼る経営)に傾斜してゆく。平成24年、資金繰りに喘ぐS社を、前回の悪夢を再現するような海運不況の嵐が直撃した。S社は、負債1,558億円、傭船料の支払い債務4,056億円を抱えて、2回目となる会社更生法適用を申請した。
海運不況の嵐は続く。平成27年(2015)、D社が経営破綻した。
D社の淵源は、明治期の別子銅山の物資輸送である。特定荷主の原料輸送を手掛けるインダストリアル・キャリアとして名高い海運会社であったが、平成22年(2010)頃から不定期航路船を運航するトランパーの方向へと舵を切った。D社は、パナマックス、ハンディサイズなどの船舶を次々と発注して、平成23(2011)~24(2012)年には発注残が100隻に達した。こうしたなか、海運市況の低迷が直撃して、赤字が累積し、民事再生法の適用を余儀なくされたのである。負債総額は1,196億円であった。D社では、船隊削減に努めたものの、「船隊カットをいくらしても、新造船が次から次へと竣工してくる」状況に立ち至ったという。
青野力社長の決断と脱出劇
こうした海運業界の動向を注視していたのが、青野力社長である。
平成26年(2014)に青野力社長は、青野海運のスモールハンディ「BRILLANT MOIRA(ブリリアント モイラ)」(28,000DWT)を傭船するオペレータの経営が予想以上に悪化していることを察知した。表立ってはいないが、子会社の売却や、稼ぎ頭のVLCCやバルカーを売船・返船している様子がうかがえる。
このままオペレータのキャッシュフローが悪化の一途を辿れば、やがて傭船料の支払いが滞って、青野海運の収入が途絶する。しかし、現在の傭船契約を打ち切って、他社と「ブリリアント モイラ」の傭船契約を結ぼうにも、海運不況の嵐のなかでは、足元を見られてしまう。
「ブリリアント モイラ」の海上公試運転を、青野海運の役職員は、次のように回想している。
「平成25年(2013)12月3~4日、MV『BRILLANT MOIRA』の海上公試運転に立ち会った時の思い出が印象に残っています。早朝の06:30頃に本船へ乗り込み、ドラフト計測、救命艇発進、アンカーウインドラス試験、全速航行試験など、数々の試験を終え、本船を下船した頃には夜の22:00をまわっておりました。宿舎で一泊し、翌4日朝に再度乗船し、主機操作実演、救命艇落下試験等を行いました。船舶のサイズが大きいため、試験の一つ一つの規模が大きく、迫力のあるものでした。膨大な量の試験項目が、船員、造船所、マネジメント関係者のチームワークで、段取り良く滞りなく終えられたことに感銘を受け、また同時に、この巨大な外航船を送り出す業務の一端を担えたことに誇りを感じました」
(青野海運船舶代理店部外航課課長 青木貞治「新造船MV『BRILLANT MOIRA』海上公試運転」)
平成26年(2014)の秋、中古船市場は値崩れしていなかった。「ブリリアント モイラ」は、この年1月に就航したばかりの新造船で、船齢0である。
「よし、時期は今だ!」
青野力社長が蹶然として立ち上がった。「他所の巻き添えを食ってはたまらない。この嵐から緊急脱出することが先決だ。ピカピカの新造船ではあるが、『ブリリアント モイラ』を売って、一旦仕切り直しする」
国内オペレータに長期傭船していた新造船を売るという話は、愛媛船主の間では聞いたことがない。この前例のないことをやろうというのである。
青野力専務は、11月に伊予銀行の支援協力を取り付けると、直ちに傭船解約を申し入れて、売船の手続きを進めた。船は、保証期間内の新造船である。たちまち買い手がついて、12月に売却代金が入金された。
他の船主たちは、青野海運に遅れて次々に船を売った。市場に大量の中古船が出回り、船価が著しく下がった。結果的に青野海運は、28,000DWTのスモールハンディを最高値で売り抜けることになった。
売船は極秘に進めたが、海外のブローカーから情報が漏れて、県内・国内はもとより、海外の船主の間でも大きな話題となった。
「青野海運が、2万8千トンのバルクキャリアを最高値で売り抜けた!」
「Aono,Who?」
青野海運は、世界の海運業界にその名を知らしめた。
海運不況の嵐からの脱出劇が、青野力社長にとって初の大仕事となった。
