経営再建に重馬が大なた
順風満帆で業績を伸ばしてきた青野海運株式会社であったが好事魔多し。昭和40年から41年かけて創業以来、初の大ピンチを迎えた。経理担当者の不祥事で資金繰りが苦しくなったのである。慎重派の重馬が本社を見ていたが、部下を全面的に信頼して任せるやり方が裏目に出てしまったのだ。最もこたえたのは船の建造費の返済だった。 35年から40年にかけて6年間に6隻の鋼船を建造し、4~5年で返済する計画だったが、この資金計画に大きな狂いが生じた。金融機関との取り引きも広がっており、各行に預金はあっても、それぞれ手形を切っていた状態であった。
重馬は経営再建への大ナタを振るった。取引先を伊予銀行1行だけに絞り、丸重海運株式会社を吸収合併(41年3月)して資本金を4,000万円とした。「銀行を 1本にするにしても、各行で預金より借り入れが多かったり、手形を切っていましたので、資金ショートの可能性もあり、毎日はらはらの仕通しでした」と当時 の関係者は語っている。青野海運株式会社の経営状態を心配した住友化学工業株式会社の菊島常務、三島営業部長が市太郎、重馬を呼んで説明を求めた。資料を持参した市太郎が いろいろ事情を説明し「心配ございません」と答えると、菊島常務は「よし分かった」の一言。これで住友化学工業株式会社との取引の継続が決定した。このとき同行し た眞鍋米一は帰りの汽車の食堂で、市太郎から「ご苦労だった」と酒をすすめられた思い出がある。塩崎蔦枝ら経理関係者が連日夜遅くまで仕事をしていたのを 知っていたからである。市太郎や重馬にとって大きな心労であったが、その苦境を乗り越えた安堵感を示すものでもあった。再建し、元の軌道に乗せるのに2年 ほどかかった。


昭和40年10月開設
昭和42年7月新築


