阪神・淡路大震災の発生
平成7年(1995)1月17日未明、明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災が発生した。
神戸の市街地を中心に約25万棟の住宅が全半壊し、阪神高速道路の高架橋が横倒しに倒壊するなど、甚大な被害をもたらして、公式発表の死者数は6,400人に及んだ。阪神・淡路大震災によって、被災地のライフラインが寸断されるとともに、阪神高速道路や中国自動車道の一部が不通になり、神戸港の機能が損なわれた。
神戸港では、岸壁の損傷やコンテナの流出等の危険性により船舶禁止区域が設定され、貨物船の多くの荷役ができず、神戸港発着のフェリーは、大阪南港などの代替港に振替え運航された。
阪神・淡路大震災を現地で体験した青野海運の役職員は、次のように回想している。
「私が、青野海運大阪営業所に勤務していた平成7年(1995)1月17日早朝、阪神・淡路大震災が発生しました。大阪市内に住んでいたのですが、今までに体験したことのない大きな揺れでした。直ちに船に確認しますと、ほぼ被害がなかったことで安堵しました。しかし、電車も止まり、やっとの思いで大阪営業所に出社すると、棚やロッカーが倒れ、本やファイルが散乱しており、片づけるのに苦労したのを記憶しております」
(青野海運営業本部長 村上泰志)
不幸中の幸いで、青野海運が船をつける岸壁は損傷が少なく、業務に支障をきたすことがなかった。しかし内航海運業者のなかには、震災で大きな痛手をこうむった企業も出ていた。そのうちの1社が、神戸に本社を置く株式会社丸亀組である。丸亀組は、明治17年(1884)に丸亀回漕店として創業した歴史ある海運会社で、住友化学やセンコーなどの内航輸送を請け負っていたが、震災で本社及び各施設が壊滅状態となり、海上部門からの撤退を余儀なくされた。
翌8年(1996)、丸亀組の撤退を受けて、住友化学と相談の上、丸亀組所有のケミカル船「第七住昌丸」を買船し、さらに大和海運有限会社に転売した。大和海運は、香川県三豊市に所在する優良な船会社で、青野市太郎社長の代から当社との繋がりが深い。大和海運の所有となった「第七住昌丸」は、「第八大和丸」と改称され、青野海運がオペレータとなって、住友化学のニトロベンゼン、クレゾール、アニリンを大分、新居浜から徳島、大阪への輸送業務を担った。