第1号の社船・第5光輝丸建造
青野回漕店が第5号の社船『第5光輝丸』(240トン積み)を建造したのは昭和10年のことであった。昭和の初め頃に和歌山から機帆船『光輝丸』を購人していたが、新造は初めての経験となった。建造に当たっては市太郎が金策から設計、造船に至るまで、すべての責任を持って新造計画を進めていった。
創業者・青野重松の死去
青野回漕店の事務所兼自宅は、海岸沿いの石垣の上に建っており、住いの窓から海が一望できた。この頃、重松は老衰のため離れ座敷で病床に臥せていた。『第5光輝丸』が進水するとき、家族に抱き起こしてもらい、その立派な姿を目の当たりにした。思わず万歳を三唱し、居合わせた人もこれに唱和した。しかし、重松にとって『第5光輝丸』は最初にして最後の社船となった。船が就航して1ヵ月後に亡くなったのである。命日は昭和10年4月19日。明治27年5月、金子村惣開で別子銅山の御用達商人として、「青野回漕店」を開業、裸一貫から41年間働き詰めだった。
重松は死亡の直前に「家には皆んなに分けるようなものはないが、喜助は大学を2つ卒業しており、春歳には学校も出し家を建ててやり、精米所や雑貨店を営業しているのでまずこれでよかろう。娘たち3人もそれぞれ嫁いでいる。青野回漕店の本家には市太郎がおり、頑張っているので心配はない。自分は安心している」と語った。
「無口で厳格なタイプでしたが、情け深い人でした。貧しい人に『お金がなかったら、いつでも相談においで』といって人を助けていました。怒ることもありましたが、くどくどとはいいませんでした。一喝すればそれで終わり。あとはカラッとしていました」(高橋末子=重松の末娘)
「後年、海運業が軌道に乗ってからは、広い土間に大きな火鉢を置いて、昼間はそこでゆったりと仕事をしたり新聞を読んだりの毎日でした。結婚してから、毎朝おじいさん(重松)のお酒のカンをするのが私の役目でした。食事と酒の仕度をして呼びにいっていました」(青野田鶴子)
「孫では初めての女の子でおじいさんに可愛がられました。草競馬が好きでひょうたんにお酒を入れ、お弁当を持って一緒に桜井の草競馬に連れていってもらいました。また、近所に3~4軒の芝居小屋があり、替わるごとに出掛けていました。」(加藤ヨシ=重松の孫)

右:加藤 ヨシ
